私達はやり通す - 第4回 東アジア環境市民会議に参加して

日本が長期的な発展を経て到達した、自然景観と人文景観の融合、そして人類の生産活動と自然環境の融合という境地。

中国全土 三日間という短い会議・見学日程にも関わらず、この旅が私に残した印象はとても深く、心を揺さぶるものだった。日本が長期的な発展を経て到達した、自然景観と人文景観の融合、そして人類の生産活動と自然環境の融合という境地。私は今後自分が努力するべき方向をしっかりと感じ取ることができた。

 経済発展の過程において、日本もまた、今の中国が直面している問題を経験した。40数年前の水俣病は、私達に参考にすべき多くの経験を伝えた。その苦難に満ちた訴訟の道のりを思うとき、私達中国の環境保護もまた、任重くして道遠しであることを改めて認識させられる。日本の友人達が、この問題を解決するため、忍耐強く頑張りぬき、あきらめなかったことに感服する。新潟水俣病資料館で、体験を語ってくれたご老人(訳注:権瓶晴雄氏)は、悲憤慷慨したり、意気込む様子もなく、ただ淡々と語り続け、私は深く心を打たれた。同行した“淮河衛士”の霍岱珊氏はしきりに涙をぬぐっていたし、韓国の中年女性も厳粛な面持ちで深く考え込んでいた。あの日あの時、皆の気持ちは通じ合っていたと信じている。中日韓の全員が自分達を“私達”と言える瞬間だった。私は私達の痛みを体験し、誤解や先入観に向き合い、投げ出さずにやり通した。

 私は40年前の阿賀野川がどんな様子だったか、想像できる。しかし今日の阿賀野川も、私にとってはひとつの驚きだった。工業が高度に発達した国家、その河川がこんなにも澄みきっているとは。名も知らぬ水鳥や草花が、静かに何かを訴えかけているような川辺で、暖かく私達を迎えてくれた旗野さんがつぶさに語る川の歴史。それは私達がしっかりと心に刻むべき歴史だ。映像の中で見た旗野さんは、今、目の前にいる彼と何も変わらないように見えるが、彼という一人の人間は、数十年一日の如く、ひとつの事業のために努力し続けた。この強烈な使命感を前に、思わず尊敬の念が芽生える。ゴミの埋め立て場だった小山の上は、草花や樹木が美しく茂り、頂の向こうには真っ青な空、山の麓には静かで平和な村が見える。40年という歳月は、多くのことを変えたが、変わらなかったのは彼らの忍耐強い頑張りだ。

 エンジニアとして、私は自分の力が小さくて取るに足らないことを知っているが、私には“私達”と呼べる仲間がいる。そして私達は“頑張り通す”ことを学んだ。東アジア環境市民会議はひとつの出会いの場であり、この場の力と私達の努力を通じて、私達は更に多くの理解と支持を得ることができるだろう。私達が水俣病患者のみなさんに寄せる理解と支持のように。

 共に会議に参加した何人かの年長者の方々も、同じように多くの物語をお持ちだろう。そしてその物語の背後にも、きっと同じような“忍耐強い頑張り”があるのだろうと思う。近い将来、彼らが中国の淮河や漢江や、はたまた揚子江のほとりで、友人達を前にそれらの物語を語れる日が来ることを願う。物語に語られるのは、新潟と同じように青い空と水、明るい月に照らされる丘……。

【筆者】葉 建東 / 北京市可持続発展促進会 / 寄稿 /  [C08102901J]
【翻訳】中文和訳チームC班 松江直子]]>

公害被害者を地域で支える―「新潟水俣病地域福祉推進条例」の制定

日本初の水俣病被害者支援条例が制定された

新潟 新潟水俣病の「語り部」として活躍していた徳太郎さんが急逝したのは、2003年のことだった。ご遺族に見せていただいた徳太郎さんの手帳は、ある意味、衝撃だった。日記がわりの手帳には、散歩に出かけて友達と立ち話したとか、どこを歩いたとか、日々の他愛ない出来事が綴られていた。新潟水俣病の被害者としての活動は、日常のなかに、ぽつぽつと埋め込まれているだけだった。

 新潟水俣病発生の公式発表から38年がたっていた。新潟水俣病の被害者は、被害者である以前に、地域の中で日常を生きる生活者である。そうした当たり前の事実を、徳太郎さんの手帳は改めて教えてくれた。

 それから5年が経過した2008年9月、日本ではじめての水俣病被害者支援のための条例となる「新潟水俣病地域福祉推進条例」が制定された。国の認定基準では「水俣病患者」とは認められなかった被害者を、「水俣病患者」と位置づけて、新潟水俣病患者を地域全体で支えていこうという条例である。新潟水俣病患者への偏見のない社会をつくること、制度の谷間で被害補償が十分とはいえない患者の福祉を向上させること、新潟水俣病が深刻な影響を与えた地域社会の絆を修復し、その再生と融和を進めていくこと、誰もが安心して暮らすことのできる地域社会をつくることに、この条例の目的がある。

 「新潟水俣病地域福祉推進条例」の制定は、住民に近い立場にある自治体が、住民である公害被害者に寄り添い、生涯にわたって支えていくための明確な一歩を記した。新潟水俣病の補償責任は加害企業と、公害の発生・拡大を食い止めることができなかった国にある。だが、補償とは別の、福祉という次元から、日常を生きる被害者の苦痛を和らげること、新潟県はそれに寄与することを示したのだ。

 こうした新潟県の発想の転換を、徳太郎さんは草葉の陰で喜んでくれているに違いない。徳太郎さんだけでない。被害者運動が困難な状況のなかで、「補償金欲しさで運動している」と陰口されたまま亡くなった多くの新潟水俣病被害者の方々が、残された仲間たちの、そして自らの「新潟水俣病患者」としての名誉回復を歓迎し、条例が描く「あるべき社会」の実現にむけた歩みを、厳しくも暖かいまなざしで見守っていることだろう。

 条例は2009年4月に施行される。そこが新潟県の新潟水俣病関連施策の新たなスタートラインだ。

参考URL)
 新潟水俣病関連情報:http://www.pref.niigata.lg.jp/seikatueisei/1199377205536.html

【筆者】関 礼子(SEKI, Reiko) / 立教大学 / 寄稿 /  [J08102401J]
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阿賀から東アジアへ(3) ― 阿賀野川流域を訪ねて

高齢となった新潟水俣病の患者さんだが、実に元気で明るい。問題解決と再生のカギはそこにあるようだ。

新潟 新潟水俣病の経験を中国に伝えることをテーマにした第4回 東アジア環境市民会議が閉幕した翌10月13日は、関係者らが新潟水俣病の地を探訪するフィールドトリップの日。よく晴れた秋空の下、阿賀野川流域の光景はただ清々しく、公害の地であったことを忘れさせるくらいだった。

 新潟駅前を出発したバスは阿賀野川に沿って磐越自動車道を走り、メチル水銀の発生源だった旧昭和電工 鹿瀬(かのせ)工場跡地をめざす。阿賀町役場を過ぎ、麒麟山を通り、JR鹿瀬駅を越えるとさらなる登坂になる。その中腹に見晴らし台はあり、跡地が一望できるようになっている。流域探訪で最初に降り立ったのが同地である。

 「安田患者の会」の旗野秀人事務局長に案内役をお願いし、現地ならではの話を聞く。見下ろす一帯が工場と言っていい程の規模だったことから、地域に与える工場の経済効果は小さくなかった。工場内にはちょっとした娯楽施設もあり、同社社員は羨望視されていたと言う。水俣病の病因が同社にあることが判明してもアセトアルデヒドの生産を中止するどころか増産に転じたのは、こうした地域経済との結びつきがあったため、とも言われる。

 陽射しは強く、気温も上昇する中、話も深まっていく。東北電力 第二鹿瀬発電所、未処理のメチル水銀をかつて放出していた排出口と水路など、訪れる先々で、その場に因んだ話が繰り広げられ、それに応えるように中国・韓国からのゲストも耳を傾け、メモをとり、質問を投げかける。予定時刻を過ぎてしまったのは、それだけ伝わるものがあったから、だろう。

 帰路は国道49号を走る。車窓からは阿賀野川の景観がよく見える。鹿瀬から咲花(さきはな)までの約20kmは、「阿賀野川ライン」と称される程の景勝地である。そんな風光明媚な土地の上流側を当時の昭和電工が選んだのには理由がある。製品原料となる石灰を調達しやすかったこと、発電所に近く電力を得やすかったこと、そしてその豊富な水。だが、そうした地の利・水の利が裏目となり、公害は起こり、流域を地域を分断することになってしまったのである。

 旧三川村(石間地区)に入ると、ネコやカラスが狂死したのがこの辺り、との説明があった。川の魚を食べたのは人間ばかりではない。他の生き物も同様に犠牲になった。生き物の連鎖を断ち切ったのもまた新潟水俣病、と言える。

 その後に設けられた患者さんとの交流会(千唐仁(せんとうじ)多目的集会所にて)では、水俣病の語り部である権瓶晴雄さんをはじめとする6人の患者の方々から話を伺った。

 現地を訪ねないまま、診断書をチェックするだけで「高度な学識と豊かな経験」と言って憚らなかった当時の行政への憤り、同じ魚を食べているのに地域によって認定差が生じ、さらには同じ地域内でも認定された・されないを巡って分断(住民どうしの足の引っ張り合い)が生じた苦悩、薬の効き方にも治し方にも個人差があることが理解されない辛さなどが切々と語られた。語りにくい話もあるはずだが、皆さん至って気丈だった。

 患者の一人、渡辺参治(さんじ)さんは、齢90を超えるご長寿だが、声に張りがあり、歌うとさらに朗々となる。参治さんは歌うのが何よりの楽しみで、楽しいことを実践できることが最大の治癒になっている、と言う。韓国ゲストから出た質問の一つ、「裁判や差別で辛いことが多いのに、患者の会の活動が長年続いている秘訣は?」 その答えとして返って来たのが歌。声量といい動作といい、圧巻だった。

 会代表の権瓶さんも70代後半だが、至って達者である。入院せざるを得ない期間が毎年のように生じ、それを20年近く繰り返していらっしゃるそうだが、まっすぐに人を見る眼差しやご意思を伝えようとする姿勢を見ていると、とてもそうは思えない。見た目ではわからないのが水俣病の特徴であり、その見えにくさが、あらぬ冷遇・誹謗・嫌がらせを招き、問題解決を遅らせたと聞く。見えないからこそしっかり支える、これは今日に活かされるべき教訓だ。

 かつての生業だった川舟の船頭も川魚の漁師も今はいない。だが、農業用水や飲用水は阿賀野川から供給されており、公害を超えてしっかり受け継がれている。水が元気になった以上、人も負けてはいられない。そんな気概と元気を患者の皆さんからいただいたように思う。相当な困難と苦闘を経た上ではあるが、「普通に楽しく生きる」ことが何よりの薬であり、問題解決と再生のカギでもある。阿賀から東アジアへ伝えることの一つはここにあると言っていいだろう。

旧昭和電工 鹿瀬工場跡地を見下ろす高台にて(案内役:安田患者の会 旗野さん)

手前から権瓶さん、渡辺さんら(男性3名、女性3名の患者の会の皆さん)

阿賀野川流域(下流部)マップ

【筆者】冨田行一(TOMITA, Koichi) / 東アジア環境情報発伝所 / 報告 /  [J08102403J]
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阿賀から東アジアへ(2) ― 第4回 東アジア環境市民会議(第二部)

新潟会議の第二部「東アジアの水汚染解決に向けて」他を紹介する。

新潟 会議2日目の午前中は、中国・韓国からのゲストを対象としたフィールドトリップとして、関係者一行で「環境と人間のふれあい館」(新潟水俣病資料館併設)の見学に向かった。

 同館のある場所は、阿賀野川流域に当たるが、被害発生地からは距離があるため、資料館は別の場所(より川の近く)に、との要望もあったと聞く。新潟市内に複数ある「潟」の一つ、福島潟の畔は、環境と人間のふれあいを考える上では好立地だが、被害者感情を考えると適地ではないようだ。それでも、この資料館は患者、加害企業、県の三者の協力により建てられたという点で意義深い。安田患者の会の旗野事務局長曰く「運動の成果の象徴」なのである。

 記録映像の上映の後、会議初日、開会挨拶に立った安田患者の会 権瓶晴雄(ごんぺい・はるお)代表による「語り部」としての時間が設けられる。新潟水俣病を語る上で、当時の漁法や生業の話は欠かせない。あえてそのままの言葉を使うため、中国語、韓国語には訳しにくくなるが、この訳しにくさに意味がある。自然とともに生きてきた人々が使う言葉とはそういうものであり、そのように自然との共生が深い人たちだからこそ、反自然的な作用(水汚染)の犠牲になった、ということが言えるのだ。魚を食べるのはごく日常だったこと、しびれやめまいなど様々な症状が現われたため水俣病が疑われ、人の勧めで健診を受けたこと、大学病院での健診は冷遇の極みだったこと、健診を受けたことは家族にも明かせなかったことなど、その苦渋があるがままの言葉で語られた。

 そして午後を迎え、一行は朱鷺メッセへ。会議の第二部「東アジアの水汚染解決に向けて」に移る。前日に続く報告として、アジアと水俣を結ぶ会 谷洋一事務局長より、「日本の市民が水汚染問題に果たした役割」の題で、日本における公害の略史、会のこれまでの取り組みなどが話された。今後、公害を再発させないようにするには、地域の問題を現場でしっかり押さえ、氷山の一角の下、つまり常に全体像を明らかにしていく必要があるとした。そして、これこそが市民の役目であることが強調された。

 韓国からの報告は、韓国環境運動連合(KFEM)水・河川センター 李喆宰氏による「韓半島大運河白紙化」。水汚染の事例ではないが、運河の造成工事によって莫大な環境破壊がもたらされることが予想されるため、その白紙化こそが最大の予防策であると訴えられた。現時点では工事の動きは止まっているが、一部推進派が動き出しており、警戒を強めていると言う。

 休憩を挟み、15時過ぎからは、今回のテーマを集約するための宣言文の討議が行われた。鳥取環境大学の相川泰准教授により、文案が読み上げられた後、会場からは次々と声が上がり、宣言が練られていく。

 被害者の声をより強く/内部告発を促すことで再発防止を図る/情報公開を進めることが重要/豊かさの追求が公害を招くことを明記、といった意見が出され、中韓両国のゲストからも、特に具体的な行動を伴わせる旨、提案が相次いだ。何らかの被害を実体験している現場型NGOならではとも言える発言だが、被害が進行形だからこそ伝わる切迫感がある。今回のテーマの一つに、その切実さを共有すること、が挙げられるなら、その意味においても成功と言えるだろう。

 議論は文案の修正レベルから、より実質的な意見交換へと移っていく。同様の水汚染が後を絶たないのは「見えなくなる」ことが原因ではないか、実態が見えない以上、常に耳を傾け、向き合うことが大切ではないか、そのために必要なのは被害者を支えるネットワークであり、それが3カ国で形成されることが重要ではないか……。

 そして、閉会前に旗野事務局長が語った次の言葉が一つの宣言となる。「豊かに生きるというのはどういうことか、をともに考える。そして、熊本と新潟のこどもたちの交流に中国を加えるなど、次世代のネットワークを」

 議論と経験共有が深まり、新潟宣言は、下記の内容での趣旨採択となった。

 1. 公害・環境汚染のこれ以上の再発の防止と、既に起きた被害の解消・救済
 2. 中国の水汚染克服に向けた取り組みへの協力
 3. 企業に対する、安全や環境の面での問題の有無を判断するための情報公開の要求
 4. 新潟水俣病の経験に学び続けていくこと
 5. 公害・環境汚染の被害者と救済支援者の経験を受け継いでいくこと

 今回の討議を踏まえ、宣言文を引き続きまとめることを確認し、会議は無事閉会した。2日間の会議の成果は、その宣言文の発表(ホームページ、メールマガジン等)に合わせて、改めてご紹介する予定である。

(阿賀から東アジアへ(3) http://www.enviroasia.info/news/news_detail.php3/J08102403J に続く)

参考URL)
 県立 環境と人間のふれあい館 http://www.fureaikan.net/

魚や漁法について身振りを交えて話をする権瓶さん

権瓶さんの話に聞き入る各国参加者ら

満場の拍手をもって宣言文の趣旨採択がされた

【筆者】冨田行一(TOMITA, Koichi) / 東アジア環境情報発伝所 / 報告 /  [J08102402J]
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中国の水汚染防止のため、新潟の水俣病の実例に学ぶ

18名の中国草の根NGO代表が新潟県で「第4回 東アジア環境市民会議」に参加

新潟 2008年10月11日から13日まで「東アジア地域の水汚染と健康-新潟水俣病の実例に学ぶ」をテーマに「第4回 東アジア環境市民会議」が日本の新潟で開かれ、日中韓3カ国から100名近い代表が参加した。参加者には18名の中国草の根NGOの代表も含まれていた。代表参加者たちは新潟水俣病事件の発生過程を振り返り、中国が現在直面している水汚染の問題につき討論し、「東アジア地域の水汚染の消滅と汚染被害者救済に関する新潟宣言」を採択した。

 今回の会議は、東アジア環境情報発伝所、新潟水俣病安田患者の会の主催で、中国環境友好公益協会、韓国環境活動連合会、新潟水俣病共同会議、日本環境会議の共催で開催された。また、水俣病に関して汚染被害者とその救済者の立場から開催された、初めての国際会議である。

 新潟水俣病は、世界の環境保護歴史上重大な節目となる事件であった。1965年に新潟水俣病は正式に公表されたが、これは1956年の熊本水俣病に続く公害だった。

 「環境と人間のふれあい館―新潟水俣病資料館」、安田患者の会において、代表参加者と水俣病患者は交流会を行った。参加した数名の患者達は今なお水俣病に悩まされており、ある人は完全に食物の味を感じることができず、またある人は手が絶えず震えていた。

 立教大学の関礼子准教授、木戸病院名誉院長 斉藤恒先生、新潟水俣病安田患者の会事務局の旗野秀人さんらは、参加者に対し新潟水俣病の発生について詳細に次の様な内容を説明した。水俣病患者の認定は非常に難しく、水俣病患者は誹謗、非難などの圧力を受けたこと、水俣病患者の訴訟闘争、日本政府の無作為、水俣病発生後の汚染企業の冷淡な態度、水俣病が全地域の住民生活に重大な影響をもたらしたこと、民間環境保護活動家、弁護士、医学専門家を含む社会各界の人々が水俣病患者を救済するために行った努力等。

 新潟水俣病事件のために奔走して37年の旗野秀人さんは次のように述べた。「中国では、新潟の水俣病の時期と同じように河川の汚染が問題になっていると聞きました。もし会議に参加している皆さんに新潟の過去と現在の真実を見ていただくことができ、それが何かしら彼らの役にたつのであれば、私たち新潟人も光栄に思います。」

 現在の新潟は、空は青く空気は澄んで、阿賀野川の水も透き通り、過去の水俣病がもたらした靄は徐々に晴れて、過去の平穏な人々の生活を取り戻した。しかし、水俣病の痛ましい教訓は、すでに世界に対して環境保護が人類自身も保護することを証明している。

 会議の期間中、淮河衛士会長の霍岱珊さん、綠色漢江事務長の葉福宜さん、綠家園ボランティアの竇麗麗さん、遼寧盤錦ズグロカモメ保護協会会長 劉徳天さん、江蘇緑色の友事務長 王麗娜さん、北京市持続可能な発展促進会の李俊さん、重慶市緑色ボランティア連合会会長の呉登明さんらは、中国の水汚染状況及び中国の民間環境阻止区が水環境保護のために行っていることをそれぞれ紹介した。また、韓国環境活動連合会の李喆宰さんは、韓国で水汚染問題を解決するために韓国市民が果たした役割と、韓国(朝鮮)半島大運河建造に反対するために韓国市民、民間組織が行った努力を紹介した。

 会議は討論後、「東アジア地域の水汚染の消滅と汚染被害者救済に関する新潟宣言」を採択し、日中韓三カ国が、中国への水汚染防止協力強化、汚染予防と汚染被害者救済にかかる交流、企業の環境情報公開推進、自らの環境への態度改善等、お互いに努力を行っていくよう呼びかけた。

 中国環境友好公益協会会長李力は、「日本で43年前に起こった公害が現在の中国で再度起きようとしている。日本国民がかつて直面した困難、挫折などは全て現在の中国の環境保護活動家も直面しているものであり、ひいてはある地域の政府及び企業の態度も非常に似通っているものがある。私たちは日本の歴史から教訓を学び、中国の水汚染を予防、改善していくべきだと思う。」と述べた。

 第5回東アジア環境市民会議は2009年に中国遼寧省盤錦市にて開催する予定である。

【筆者】竇麗麗 / 緑家園(Green Earth Volunteers) / 寄稿 /  [C08102303J]
【翻訳】中文和訳チームA班 五十嵐裕美]]>

水俣病 世界の人々の心に響く

「第4回 東アジア環境市民会議」で訪れた新潟。感慨深く、収穫の多い三日間。

新潟 「第4回 東アジア環境市民会議」に出席する機会を得、新潟で過ごした三日間は、感慨深く、多くの収穫を得ることができた。その中でも新潟の水俣病患者の会の旗野秀人さんの37年一日の如く、マイノリティの人々のために声を上げる姿には最も敬服した。また最も印象深かったのは企業と政府はなんら責任ある処理を実施せず、2000人もの人々が有機水銀中毒になるという阿賀川流域での新潟水俣病を引き起こしたということだった。

 この会には中国と韓国からもNGO組織の代表者が参加したが、彼らのレポートからも工業による汚染が各国の普遍的な問題だとわかった。特に中国のNGO代表者は、生き生きとした具体的な内容で、長江(揚子江)、淮河、遼河、漢江など、各地に存在する汚染問題とその重大さを発表した。表現方法や汚染の程度の違いはあるが、おしなべて言えることは、どの汚染も工業の近代化あるいは軍事の近代化の過程で引き起こされたということだ。水俣病は日本で起こったことだが、それは人類の現在と未来を脅かすものであり、また人類の発展の中で共通して直面する厳しい問題であり、試練である。

 会議では東アジアの市民に様々な情報を提供し、新潟水俣病の教訓を伝えただけでなく、中日韓三国の水汚染という地球規模の社会的問題に対する関心を大きく高める、交流と協力を通して、必要なより科学的な予防措置について研究討論するなど、会に参加した代表者それぞれにとって益するところが大であった。

 昭和電工 鹿瀬工場跡地(新潟県阿賀町)の見学と被害者の方々との交流では、旗野さんが丁寧に説明してくださった。旗野さんの目には、亡くなってしまった被害者の方々が今も忘れられることなく映っているようだ。「この人たちはこの世に生れて、こんなにつらい病気にかかり、裁判や差別に晒された。」という旗野さんの言葉から、かつて排水の中に含まれていたメチル水銀によって川が汚染されたこと、企業が製品の作り変えを行ったこと、何度にも及ぶ訴訟のこと、そして患者たちが補償を得ることがとても困難なことがよくわかり、日本人のあきらめない精神に心からの尊敬を感じた。

 直接交流を通じて、患者の方々が阿賀野川流域に長く暮らし、川に排出されたメチル水銀に汚染された魚を食べ続けたことからこの病気に罹ったということを知った。病状の重さの違いはあるが、この病気の完治は望めない。特に胎児の時に水銀中毒となった患者の方々は本当に気の毒である。

 日本の水俣病専門家の研究結果からは、水俣病研究の歴史を知った。この他、「阿賀に生きる」という映画を見て、また私の心は震えた。

 三日にわたって得た新潟水俣病の教訓は中韓にとって良い事例となっただろう。中国と新潟は共通する点が多いので、中韓にとって参考になることが大変多い。会の印象や感想とは別に、私が最も考えたのは中国の水汚染の現状と潜在的な被害のことだ。もっと心配なのは、また水俣病患者と同じような汚染の被害者が現れることがあるのではないか、ということだ。すでに起こってしまったこと、起こりそうなこと、将来起こる可能性のあることに対して、私たちはどのように対処すればいいのか? 現にある「癌の村」のガン患者はどうすれば補償を得られるのか。さらに大きな心配は、すべての生態系が受けた損失はどうすれは回復でき、補償できるのか。

 今回の会議の締めくくりに中国NGO代表が言った次の言葉に私も大いに賛成する。

 ・過去に向き合う ――― 被害者の補償
 ・現在に向き合う ――― 企業の社会責任
 ・未来に向き合う ――― クリーンな生産

 各方面は水汚染問題をより重視すべきである。研究体系を確立し、汚染を食い止める法律の整備と管理体系の確立、またその健全で確実な実施、同時に環境保護は一人一人の責任だという考えや風潮を打ち立てることを促進していくこと、様々な現代の科学と知識を吸収し発展させ、汚染を減らし、持続可能な発展に貢献していかなくてはいけない。

 NGOは警鐘を鳴らし続ける!

【筆者】陳 英 / 香港地球の友(Friends of the Earth(HK)) / 寄稿 /  [C08102302J]
【翻訳】中文和訳チームB班 下垣内あゆみ]]>

水俣病は、まだ終わっていない

水俣病のような悲惨な事件が再発しないよう、環境NGOの協力を強化していきたい。

東アジア■汚染水が招く環境の逆襲-①

 中学・高校の教科書にも載っていて日本でよく知られている水俣病は、イタイイタイ病とともに、現代もっとも代表的な公害病として挙げられる。そして、恐らく「水俣地域の住民が水銀で汚染された海の魚を食べて、体が捩れるなどの症状が表れた不治の病気」ということが、ほとんどの人が知っている水俣病の内容であろう。

 しかし、この病気の発生後、何年も経たないうちに日本の他地域でまた水俣病が発生し、その後、カナダやアジアの幾つかの国をはじめ、世界中で散発的、持続的に現れ、今もある地域でこの病気が発生しているという事実を知っている人は、あまりいない。

 水俣病は水銀中毒の現象で、水銀に汚染された水を飲んだり、生物の食物連鎖を通じて最終的には、魚介類を摂った人に水銀が大量蓄積され、発病する。症状としては、筋肉の捩れや体力低下などがあり、通常いくつかの症状が一緒に現れ、酷い場合、死亡にまで至る。しかし、未だに水銀を一部排出できる治療法しか見つけておらず、完治できる治療法はない。そのため、被害者たちは一生を鎮痛剤と苦しみの中で暮らしている。

■水俣病が初めて発生した熊本県水俣湾

 この病気が初めて発見されたのは熊本県の水俣湾一帯で、南部の小さい漁村で1952年、異常行動をする奇形魚が現れ始めた。そして、52年には海が赤黒く変わり、海辺に打ち上げられた魚を食べた猫、犬などが海の中に飛び込むなど、狂いを見せ始めた。そしてその翌年は、住民の手足が捩れるなど、中枢神経の異常症状が現れた。

 そして、56年に水俣市に住んでいた6歳の田中さんが初めて症状を訴えることで、政府が公式的に熊本の水俣病を発見し、59年に「水俣病の原因は、水銀と推定される」という報告書を出した。そして、水俣湾近辺にあった日本窒素肥料会社「チッソ工場」がアセトアルデヒドを作る過程で水銀を触媒として用い、それを排水とともに長い間放流していたのが原因だということが明らかになった。

 しかしその後、チッソ工場は大した金額でもない慰労金で住民との紛争を解決しようとした。そして政府は、水俣地域に対する追加調査や浄化、補償などをろくに支援していなかった。その上1960年には水俣の発生が終わったとし、新たに発病した患者を認定しなかった。結局、当時認定を受けた111人の被害者の中、47人が死亡、現在補償を受けている被害者と未認定被害者を合わせると、合計27,000人余りの公害病患者が出た。

■再び発生した第2の水俣病

 1959年新潟県阿賀野川で魚の集団廃死が発生した。そして、62年から手足が痺れ、物が二重に見えるなど、近隣住民の健康に異常な症状が現れ始めた。64年には猫が自分で壁に頭をぶつけ死ぬなど、熊本地域にも起きた「自殺猫」が現れた。そして、熊本の水俣病を確認してから9年目になる1965年、新潟の水俣病が公式に発表された。

 政府は、水俣病が初めて発生して以来、水銀を使用した窒素会社などに対する全国的な調査を行った。しかしその結果は公開されず、政府政策の改善も見られなかった。新潟地域の水俣病は、阿賀野川の近辺にあった昭和電工が水銀を数年間排水とともに放流したのが原因で発生したもので、昭和電工は当時政府の調査対象に含まれており、水銀の危険性についても知っていたが、その危険性を過小評価した。その上、調査結果が公開されていなかったため、住民は事前にこの事実を知るすべがなかった。

■公害を社会問題化した原点、新潟水俣病

 昭和工場と国を相手に、1967年から始まった新潟被害者たちの訴訟は、2004年まで続いた。67年~71年に行われた1次訴訟は住民の勝利で終わった。73年に締結された補償協定を通じ、水俣病と認定されれば、この協定に基づき補償を受けられるようになった。しかし同年、政府の水俣病認定基準が厳しくなったため、未認定被害者たちをはじめとする新たな被害者は82年に第2次訴訟を起こし、95年に国の最終解決案を通じて昭和電工と解決協定を結んだ。当時一緒に進んでいた熊本の水俣病訴訟も、国の最終解決案を受け入れた。だが水俣病に対する国の責任を認定する関西訴訟は2004年にまで及び、ついに原告の勝訴で終わることになる。しかし、日本の行政府は司法部のこの判断を未だに認めていない。

 このような新潟の水俣病と関連する一連の活動は、水俣病という公害病が社会問題化するきっかけとなった。新潟の水俣病が公式発表された当時、ほとんどの人は水俣病という名前は聞いたことがあっても、有機水銀中毒による病気だということと、このような病気を引き起こす窒素工場などの危険性については知らなかった。しかし、長い時間をかけて訴訟が起こされ、既に終わったと思っていた水俣病の問題が再び注目を集めるようになってから、反公害の世論が喚起された。このような理由から、熊本県の水俣病は「公害の原点」、新潟の水俣病は「公害を社会問題化した原点」とされている。

■新潟の水俣病事件が教える意味

 日本は、現代の様々な主要な病気に対する政策の不在に対し、「水俣病の教訓を学んでいない」と話している。第1、第2の水俣病という経験を通じ、場当たり的な対処は被害の拡大と再発を招き、初期対応の遅延は人権を侵害し、行政に対する不信を拡大させ、結局、社会的、経済的損失を拡大するという事実に気づいたのである。

 また、新潟の水俣病のように、環境汚染による被害は点ではなく、面で発生する。被害を最小限に抑えるためには、患者個人個人の問題としてではなく、地域全体の問題として環境汚染を把握し、対処していく必要がある。その上、地域内に位置する企業に対して、国の管理と規制だけに頼らず、自治体や地域市民組織が企業との協定などを通じ、共存共栄を探ることも必要である。これは、第2次訴訟後結ばれた解決協定にも「企業活動において、地域環境、地球環境保全にも社会的責務を果たすべき」と明記されている。

 そして、37年間に渡った企業と国を相手にした被害住民の訴訟は4大公害裁判と呼ばれ、公害被害者救済法制に大きな転換をもたらした。この訴訟の勝利は、公害に対する企業と国の責任を認めさせ、彼らの姿勢を変化させるきっかけとなった。

 しかし、何よりも水俣病が我々に教えてくれるもっとも大きなメッセージは、私たちが破壊した環境は、結局、その中で生きている人間に被害をブーメランのように引き戻すということだ。いわば「環境の逆襲」である。私たちが今も絶えず破壊している環境と生態系がいつかその被害をそのまま人間に引き戻しかねないという危機感は、環境と人間が共存できるような社会作りの必要性を逆説的に語る。

■まだ終わっていない水俣病

 残念ながら、水俣病は未解決の問題だ。日本国内の被害者に対する救済がいき届かないという問題とともに、世界各地で第3、第4の水俣病が引き続き発生しているからだ。

 カナダのオンタリオ州、インドネシアのジャカルタ、スラバヤの苛性ソーダ工場、フィリピンのミンダナオ 金鉱、イリガンの塩素工場、タイのチャオプラヤ川、インドのカール川、カンボジア 台湾企業による不法投棄事件などがすべて水銀中毒と関連する事件だ。

 その中で、急激な開発途上の段階を経ている中国が特に懸念される。中国は70年代、白頭山を水源とし、ロシアのアムール川と合流し、オホーツク海に流れる松花江が水銀に汚染され、70人余りの住民が被害を被った。汚染源は、吉林のアセトアルデヒド工場と染料工場、電池、電動測定器、金鉱精錬工場などだった。このような水銀汚染以外にも、中国の水問題は深刻なレベルに達しており、中国の河川や湖の70%以上が汚染されている。そのうち、30%前後は魚が生きられない「5級水」という報道もある。

 このような状況で何より大切なのは、水俣病の意義に基づいた全世界的な交流と協力である。問題が発生した地域の経験を交流し、地域的、国家的共通の予防と対応が必要である。これは、現在水俣病を患っている被害住民が自分たちのような被害者が再度出ないように、誰よりも願っていることだろう。

【筆者】ハン・スギョン(Han Sook-Young) / 韓国環境運動連合(KFEM) / 寄稿 /  [K08101801J]
【翻訳】尹 美英(Yoon Mi-young)]]>

阿賀から東アジアへ(1) ― 第4回 東アジア環境市民会議(第一部)

新潟会議の第一部「東アジアにおける水汚染の実態」を紹介する。

新潟 東アジアで環境情報を共有するネットワークが2002年から2年おきに開催してきた「東アジア環境市民会議」。東京~ソウル~西安と日韓中の順で持ち回りで行ってきて、今年2008年は日本の番。前回の西安会議でテーマとした「水と健康」を継承し、東アジア共通の問題としての水汚染を主眼としつつ、公害の当事者や現場から学ぶ意義を重視し、今回は新潟で開催する運びとなった。(主催:東アジア環境情報発伝所/新潟水俣病安田患者の会)

 新潟は信濃川と阿賀野川の二大河川を擁することから、水都としての側面を持ち、市内はもちろん広く市外も水の恵みとともにあると言っても過言ではない。特に阿賀野川は流域面積こそ全国8位(7,710平方km)だが、水量の豊富さは頭抜けていて、実に129億トン(全国2位)とされる。恵みが多い分、逆にひと度汚染が広がると、流域に及ぶ影響もまた甚大になる。四大公害の一つ、新潟水俣病はそんな阿賀野川で起こり、特に川とともに生きてきた人々に多くの被害をもたらし、今なお潜在患者の数が把握できていないのが実状と言われる。

 新潟水俣病の公式発表から43年が経過した今、その歴史を正視し、発生から悪化、または対応と再生といった一連の経緯を共有することは、同じ轍を踏ませないとする「予防」につながるのと同時に、すでに各地で水汚染が深刻化している中国に対しては「早期回復」に結び付けてもらえる可能性がある。予防と回復の両面を同時に進めてもらうために、東アジアの人々が知恵を出し合い、行動をともにする、そんな期待を込めて会議は開かれた。

 会議初日(10/11)は、第一部「東アジアにおける水汚染の実態」と題し、主に現地・新潟における新潟水俣病の教訓と中国各地の現状とが報告され、共有が図られた。

 主催者挨拶に始まり、新潟県知事のメッセージ代読、新潟市長の挨拶と続く。会議を後援した県と市からはいずれも、被害者を社会全体で支えること、そのためには地域のつながりが欠かせないこと、との話があった。

 立教大学の関礼子准教授による基調講演「東アジアの市民に伝えたいこと~新潟水俣病の教訓」では、川と人とのつながりを断ち切ったのが新潟水俣病であり、そのつながりを回復することが問題解決を早める、と訴えた。当時の県が被害を点ではなく面で捉えた功績を評価しつつも、旧・安田町では検診が打ち切られてしまったことから、被害が見えなくなってしまった例を挙げ、行政はむしろ積極的に検診を行い、また住民が声を上げやすくするのを支えることが務め、と説いた。

 釜山韓国環境運動連合の具滋相代表と一橋大学大学院の寺西俊一教授からはコメントとして、公害は国内で一番弱いところ、政治・政策から遠いところで起こること、情報交換・相互交流→相互理解→相互信頼→相互協力の4つのステップを確認しつつ、新たな水俣病が起きないように手を結ぶべきであること、などが語られた。

 木戸病院の斎藤恒名誉院長からは「新潟水俣病と向き合って~新潟におけるメチル水銀中毒」との題通り、被害の実態が克明に紹介され、水俣病の病因がハッキリしているのにアセトアルデヒドを増産し続けた原因企業を「未必の故意」と断罪した。

 開会後2時間余りが経ったところで、中国からのゲストによる発表が7つ続く。今回の来日にあたっては中国国内50を超える団体からの参加希望があったそうで、その中から水汚染のテーマに適った団体が選抜されたとのこと。これだけの団体が一同に会するだけでも意義深いが、選りすぐりということで、いずれの発表も重厚でインパクトがあった。以下、要旨のみ記する。(敬称略)

■「淮河汚染処理:流域認可制限と市民行動」 霍岱珊(淮河衛士 会長)《河南省》
 市民の参加が足りなかったのが汚染拡大の原因/排出口をモニタリングしたところ水質は好転したが、全流域をカバーできていなかったため汚染再発

■「母なる川を保護する~緑色漢江が行動する」 葉福宜(緑色漢江 秘書長)《湖北省》
 陳情により製紙工場は閉鎖され、唐白河(漢江の支流)は再びきれいになった/深井戸による飲用水の供給は流域住民に歓迎されている

■「グリーン選択・呼びかけを通じ、企業の環境対策に監視の目を」 竇麗麗(緑家園ボランティア 執行副主任)
 環境保護をしないと自社利益にならないことを企業に説く/http://www.ipe.org.cn/では、データベースと水汚染地図を公開(日系企業約100社掲載)

■「遼河の汚染は深刻~NGOが警告」 劉徳天(盤錦ズグロカモメ保護協会 会長)《遼寧省》
 汚染企業が操業を再開したり、汚水処理設備の稼働を減らしたりしていないかをチェック/監督、観測、警報、公表の4つのプロセスをとる

■「水資源保護におけるNGOの役割」 王麗娜(江蘇緑色の友 秘書長)《江蘇省》
 リソースの統合・プラットフォーム化・拠点作り・トレーニング・PR用資料作成・メディアへの発信の6つが基本

■「北京郊外農村部の飲用水安全確保及び廃水の再資源化」 李俊(北京持続可能な発展促進会 環境部エンジニア)
 専門家が集まり、汚水処理の各種技術を蓄えているのが強み/地域に合わせた対応を心がけ、面の汚染を防いでいきたい

■「揚子江健康運動」 呉登明(重慶市緑色ボランティア連合会 会長)《重慶市》
 ダムと環境をいかに両立していくかが課題/揚子江上流の森林と土壌の保全は、中国のみならず、西太平洋沿岸諸国のためでもある

 この後、日中韓の各言語が飛び交う感じで、熱心な質疑応答が繰り広げられ、特に汚染源となる企業に対するアクション、政府・企業・NGOの関係性などについて意見が交わされた。

 事前申込による参加者が大半を占める中、発表者や関係者、さらには当日参加者も加えると、150名の定員に近い席が埋まる盛況を博した。2日目(10/12)の会議は、第二部「東アジアの水汚染解決に向けて」。前日の報告を受けての討議と宣言文の協議などが行われる。

(阿賀から東アジアへ(2) http://www.enviroasia.info/news/news_detail.php3/J08102402J に続く)

開会後の客席の様子

ズグロカモメの紹介シーン

日中韓おそろいで記念撮影

【筆者】冨田行一(TOMITA, Koichi) / 東アジア環境情報発伝所 / 報告 /  [J08101701J]
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セミのぬけがらで地域を診断

セミを通じて身近な自然環境に目を向ける姿勢が定着

大阪
■地域環境保全の目を・・・にしよどがわこどもエコクラブの活動

 夏休みも終わりに近い8月26日(木)、セミのぬけがら調べを行った。54人の元気いっぱいの小学生が集まった(保護者等大人も含む)。セミは環境指標になる生物。すんでいるセミの種類によって、地域の自然環境の豊かさがわかる。セミのぬけがら調べは、子どもにとって身近な生物で簡単にでき、セミを傷つけずに済む利点もあり、広く浸透している環境調査の方法である。

 大阪市西淀川区は、甚大な大気汚染公害の被害を受けた地域だ。二度と公害を繰り返さないために地域の自然環境を保全していく意識を子どもたちに持ってほしいという思いで、「にしよどがわこどもエコクラブ」を1996年に設立した。以来、学童保育所の指導員やガールスカウトのリーダーなど子どもたちの指導者や大学生などがボランティアで関わり、イベントの企画運営を行っている。セミのぬけがら調べの他にも、春にはタンポポ調べ、秋にはハゼ釣りなど、季節に応じて地域の自然を用いた調査やイベントを実施している。また、空気の汚れの一つである二酸化窒素の簡易測定なども行い、大気汚染についても学んでいる。

■セミの抜け殻から学ぶこと・・・自然環境の変化がわかる

 大阪市に生息するセミは4種類といわれているが、市内で見つかるセミの9割以上はクマゼミというセミだ。西淀川区も同様で今回の調査も、集めた240個の抜け殻すべてがクマゼミだった。しかし30年以上昔は、大阪市内にクマゼミは少なかったという。他のセミに比べ、ひと回り以上大きなクマゼミは、セミとりを楽しむ子どもたちにとって憧れの的だったほどである。どうして現在はクマゼミばかりになってしまったのか。それは、人間がつくった都市環境の影響だ。

 クマゼミは、アブラゼミなど他のセミに比べ、整地され土の固い場所など乾燥している都市部でも生きていくことができるといわれている。同じ位の緯度、気温の場所でも、森や畑など里地里山のある地域では、他のセミの生息割合が高い。つまりすんでいるセミの種類によって地域の都市化の進み具合がわかるのである。

 また、温暖化の影響も学ぶことができる。クマゼミは1990年の時点では、太平洋側の北限は「神奈川県の三浦半島先端の城ヶ島と平塚市西部を結ぶ線」とされていた。だが、現在は東京の公園でも見られるようになっている。温暖化の進行に伴い、クマゼミの生息可能な地域が北上しているのである。

 環境問題だけではなく、セミの生態そのものも子どもたちにとっては勉強だ。抜け殻からは種類だけではなく、オス・メスの別も見分けられる。また、セミは幼虫期を土の中で過ごすが、卵は木の枝に産む。そのとき土の上にその枝が落ちるよう、枯れ枝を選んで卵を産む。産卵痕という卵をうみつけた跡がついた枝を探しながら、子孫を残すためのセミの工夫も学ぶのである。

■自ら学び、気づき、行動する・・・セミ新聞を作成し環境情報を発信

 環境問題は知識だけでは解決できない。自ら学び、気づき、仲間とともに行動していくことが重要だ。参加した子どもたちは、集めたセミの抜け殻から、種類やオスとメスの数、その他学んだことをグループごとに「セミ新聞」にまとめる。この「セミ新聞」の作成は、互いの気づきの共有、知識の定着、学んだことを形にする、の3つが目的だ。作った新聞はみんなの前で発表をして、他のグループの子どもや参加した大人の講評をもらう。これが次の行動につながる。

 また、セミ新聞は地域の図書館や地元の高校の文化祭でも展示される。地域の自然環境の様子を、多くの人に見てもらうことで、活動発信の場にもなっているのである。
      
■セミを通じて身近な自然環境に目を向ける姿勢が定着

 「夏に野外に出ると、どこへ行ってもセミのぬけがらを集めてくる」・・・これは、子どもたちと日常的に接する、学童保育所の指導員の言葉だ。セミの抜け殻を通して自然環境に目を向ける姿勢が子どもたちに定着しているようである。

 自分たちの活動が地域の環境に影響を与えていることを日常生活で意識しながら、どんなまちや環境をつくっていけば良いのか考えて行動する大人になってほしい。それが、公害被害を二度と繰り返さないために、必要なことだと考える。

*参考文献…沼田英治、初宿成彦「都会にすむセミたち」岩崎書店(2007)

アブラゼミとクマゼミ

企画運営にあたった、大学生と子どもたち

図書館に展示されたセミ新聞

【筆者】小平 智子(ODAIRA, Tomoko) / あおぞら財団 / 寄稿 /  [J08101702J]
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海洋の荒漠化に警鐘を鳴らす

東シナ海の2歳以上の魚群比率は10%に満たない。近海水域の生物資源が萎縮している。

中国全土 この時期は、東海区域の漁業従事者が一年で最も喜ぶ時期である。3ヶ月の禁漁期の後、一年で最も多くの漁獲が見込めるため、数十万の漁業従事者が待ちわびる季節であり、魚・エビ・カニ・貝などが上海、浙江、江蘇、福建の水産市場に続々と水揚げされてくる。しかし、市場の繁栄は東シナ海区域の生態系の悪化、漁業資源の萎縮を招いている。

■濫獲、排出、干拓 ・・・ 海洋生態への「三つの罪」

 6月から9月の禁漁期、記者は漁業機構の執行者の巡視に付き添い、常に耳にしたのが「魚網の密集、連続捕獲、魚介類が成長する前に捕獲される」という嘆きで、漁業従事者も毎年減少する捕獲漁に頭を抱えている。

 20世紀の1980年代以前、東シナ海区域の漁師が捕獲する主要なものは、タチウオ、フウセイ、キグチ、イカなど数十種が多かった。現在はタチウオとキグチが一定量を保っているが、その他の野生品種の漁獲高は大幅に縮小している。恐らく、漁船の馬力が大きくなり、設置網、帆式網の巨大化など捕獲能力が漁業資源の受入可能な量を大きく超えたためである。漁業機構の逐年の監測によれば、最近10年、東シナ海区域では当年に生まれた魚類を主として捕獲し、2歳以上の魚類が占める割合は1/10である。

 過度の捕獲が海洋生物の成長の時間を奪い、沿岸の汚染、沿岸工事が海洋生物の生存空間を奪っている。国家海洋局の全国汚染排出監測の結果を見ると、去年の全国の海への排水の主要汚染物の総量は約1,219万トンに上っていることがわかる。東シナ海区域のこの数字は400万トン近くに達しており、三省一市の178個所の排水点では87%が標準排出量を超えている。このような環境の中では、海洋動植物の生存、成長は更に困難であり、生物の多様性を保つことは難しい。

 海洋に向かって発展する、これは土地資源が少ない東シナ海沿岸地区の普遍的思考である。
近年来、砂浜の開拓、港湾建設などの沿岸工事が盛んに施行され、近海水域にあった良質の産卵場、生育場、養殖機能を喪失している。東海水産研究所の沈新強主任の紹介によると「大量の水辺の工事により近海の砂浜が消失し、魚類は更に遠いところで産卵するしかなく、生存率が低下していて、このままで行けば海洋生物の連鎖の断裂を招いてしまう。」という。

■休漁して放流、漁船を減らして生産工程へ ・・・ 海洋生態系の休息と修復を平行して

 今年6月から9月までの休漁期間、東海区域の漁港監督管理局は700万元余りを投じて人工孵化させたフウセイ、黒鯛、クラゲなど1.9億尾余りを放流した。今世紀に入って以来、東海区域での放流は魚介類、カニ、貝など合わせて20億尾を超えている。

 休漁期を設けて放流することは、漁業資源の衰退を緩和する有効な方法である。毎年東シナ海区域の休漁漁船は2万数隻に上る。同時に減船を実施して生産工程へ転換し、漁船の数と稼働率をコントロールしている。現在、東シナ海では既に9300隻余りを減らし、生産工程へと転じた漁業従事者は漁船の稼働率に応じた補償を得ている。政策の指導の下、大量の漁業従事者が捕獲作業から退いており、海域の全体の捕獲は減少している。

 浙江、江蘇などの漁業資源の衰退が深刻な水域では、近年再び人工の漁礁を建設して、稚魚や飼料を放流し、魚網などの設置を防ぎ同時に魚類の安全な生息地を保ち、新しい漁場の形成を助けている。この他に、港口などの大型工事現場付近では、漁業機構がカキやオキシジミなどの付着性貝類を放ち、有害物質を吸着させている。

 東シナ海区域の三省一市はここ数年多くの生態系環境修復措置を行っているが、生物資源の萎縮局面は続き、根本的な好転に至っていない。沈新強主任は「悪化していないが好転もしていない」とここ3年の東シナ海の環境品質と生物多様性をまとめている。

 「経済発展と生態系保護は調和不可能な矛盾ではなく、肝心なのは発展理念の転換と同時に健全な生態系を補償する構造である。」と東シナ海漁業機構の漁港監督管理局副局長 鐘小金さんが話している。

 現在、東シナ海での放流には全て人工養殖の稚魚が用いられていて、コストが非常に高い。しかも資金の源は大型プロジェクトの生態系補償金や汚染事故の罰金であり、農業部と各省市の毎年の割当金は不定である。漁業機関は船舶数、稼動率、魚網などの投入はコントロールしているが、捕獲量や交易所での出荷量はコントロールしていない。そのため捕獲量が放流量よりも多く、魚類の増殖は非常に緩慢になっている。専門家は、海洋の生態系の修復は様々な方面で統一して具体的で長期的な計画を立てるべきであり、毎年突風が吹くようなことではいけないと指摘している。

 国務院が2006年に発表した『中国水生生物資源の保護行動要綱』によれば、2010年までの間に、水域の生態系環境の悪化を一応和らげ、さらに漁業資源の衰退、危険に瀕している種が増加している現状を、本世紀の中ごろまでに、水生生物資源が豊富で水域生態系環境を優美にすることが目標であるとしている。このように見てみると、海洋生態系の修復というのは非常に緊迫した重要な任務と言える。

【筆者】王 薇 (人民日報) / 環境友好公益協会(EnviroFriends) / 人民日報より転載 /  [C08101502J]
【翻訳】中文翻訳チームC班]]>