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←会議日程(目次)に戻る 第4回 東アジア環境市民会議

第4回 東アジア環境市民会議
〈第2部〉「東アジアの水汚染解決に向けて」

2日目(10/12)

閉会の挨拶

新潟水俣病安田患者の会 事務局長  旗野 秀人

 

 2日間にわたる長時間の議論にご参加いただき、本当にありがとうございました。
 私事ではありますが、私は21歳から新潟水俣病と関わって今年で37年目になります。私が患者さんと付き合い始めて5年目に、開会の挨拶をしてくれた新潟水俣病安田患者の会の代表、権瓶晴雄さんの連れ合いのアキさんが42歳の若さで自らの命を絶たれました。
 アキさんが亡くなられる前の晩には、「鍼治療がすごく良かった」、「旗野さん、やっと元気が出そうだ」と喜ばれていたのに、翌朝、中学3年生から小学4年生の4人の子を遺して、自ら命を絶ったんです。私は結局、何のためにもならなかったと、本当にすごくショックで、私の母親に「どうすればいいんだ?」と泣きながら訴えました。すると母親は、「とにかくすぐ行ってやれ」、「そばにいてやるんだ」と言いました。そして、私はそのとおりに、とにかく行って、一週間ほど泊り込んで、権瓶さんたちのそばにおりました。
 いま振り返ってみると、とにかくそばで寄り添っているというのが、私の姿勢なんだなと思っています。寄り添い続けて、気がついたら37年が経っていました。
 その後、千唐仁の100戸ぐらいの集落を、患者さんと共に潜在患者発掘運動をはじめ、全員の認定申請棄却についての行政不服申し立てなど、斎藤先生などの力を借りて10年ほどやります。それでも埒があかずに、第二次訴訟を起こすわけですが、この裁判にも13年半がかかりました。それでも結局は救われなかった。
 権瓶さんは78歳ですが、まだ患者の会では若手なんです。もっと高齢でいっぱい志をともにした人たちは全員亡くなられてしまいました。そういう現実があって納得はしないけれども苦渋の選択ということで1996年に和解をしました。
 中国の皆さんが、新潟を公害の先輩だと言って下さいました。私の暮らしていた旧安田町は、人口1万人なのに大勢の患者さんが出ています。これは、千唐仁という地域のみんなが1軒ずつ呼びかけあって掘り起こしたからなんです。旧安田町の川向いの五泉市は人口が5、6万人もいるのに、患者さんはたった10人しか出ていません。要するに、新潟水俣病は43年も経過しているけれども、全貌が全く見えてないということです。
 斎藤先生が診察する患者さんも認定申請が棄却されて第三次訴訟を起こしています。3回も裁判やってもまだ解決していなければ、新潟水俣病の患者さんが何人いるんですかと質問されても誰も答えることができない。これが現実なんです。
 今、深刻な中国のみなさんの報告を聞きながら思ったのですが、中国はまだまだきっと発展しようとするでしょうし、公害もどんどん激しくなるでしょう。これは人間の業のようなもので、便利さや豊かさを求める結果でしょう。しかし、豊かさの本質とは何なのか、豊かに生きるとはどういうことかを考えるところにきていると思います。
 さて、1996年の和解がきっかけとなって、環境と人間のふれあい館ができます。それは患者さんの運動の成果であり、昭和電工と新潟県がお金を出し、もう2度と同じ悲劇を繰り返してはいけないということを、次の世代や後世に伝える想いが一つの形になった建物です。
毎年、このふれあい館では、水俣の子供たちを招いて交流を行っています。ついこの前も千唐仁の集会所で患者さんと水俣の子供たちが交流しました。また、新潟の子供たちが水俣の現地を視察したりしてます。
 私は、今回の会議をきっかけとして、ふれあい館を中心にして、例えば北京の子供たちを新潟に呼ぶ。新潟の子供たちにも中国のほうに行ってもらうという、次世代の子供たちとのネットワークも実現できればと思いました。
 最後になりますが、今回、新潟での会議を開催するきっかけとなったのは、2006年に西安で開かれた第3回東アジア環境市民会議の夜の交流会で、中国や韓国の仲間と共に見た映画『阿賀に生きる』でした。酒を片手に映画を見ていて盛り上がり、ぜひ新潟を訪れたいという声があがったので、第4回東アジア環境市民会議を新潟で開催することを私たちが提案し、実現にいたりました。
 今回の会議では中国や韓国から大勢の方が来てくださって、中身も本当に充実していましたし、報告や議論もすごく活発だったという印象を受けました。
 いずれにしても、本当に無事に終えてホッとしています。ご協力ありがとうございました。


(参考)

新潟水俣病安田患者の会

 新潟水俣病の風化を防ぐためにその教訓を県内外に発信することと、会員と支援者等との交流を図ることを目的に、1975年に設立された。
 水俣病問題は文化運動であるべきと自覚し、映像、絵画、写真、書、芝居、文集、音楽など新潟独自の表現スタイルを模索し、ゆるやかなネットワークづくりを目指している。
故・佐藤誠監督との出会いがきっかけとなって生まれた、新潟水俣病患者の暮らしを描いた長編ドキュメンタリー映画の傑作『阿賀に生きる』は国内外で高い評価を受けている。

〈連絡先〉E-mail:flag[a]cronos.ocn.ne.jp
〒959-2221 新潟県阿賀野市保田3210 TEL:0250-68-5278

日本インターネット新聞(JANJAN)に転載された「あが便り」(全5回)はこちら→(1) (2) (3) (4) (5)

*このうち、4回目の“新潟の宝もん”映画「阿賀に生きる」は、JANJAN編集部長賞(2008年10月分)を受賞した。(以下、編集部長コメント)

 阿賀野川流域の新潟水俣病を扱った5回の連載記事の第4回目。全体を通じ、大企業が起こした公害が明らかになるまで、また明らかになった後も、産業が国と連合して、何の対抗力も持たない被害者住民から真相を隠し補償を安上がりで済まそうとする共通の構図が見える。企業や政府への異議申し立ての中から自然発生的に運動のリーダーが生まれ、今は地域再生へ進んで行く姿が力強い。


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