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日本が長期的な発展を経て到達した、自然景観と人文景観の融合、そして人類の生産活動と自然環境の融合という境地。
三日間という短い会議・見学日程にも関わらず、この旅が私に残した印象はとても深く、心を揺さぶるものだった。日本が長期的な発展を経て到達した、自然景観と人文景観の融合、そして人類の生産活動と自然環境の融合という境地。私は今後自分が努力するべき方向をしっかりと感じ取ることができた。
経済発展の過程において、日本もまた、今の中国が直面している問題を経験した。40数年前の水俣病は、私達に参考にすべき多くの経験を伝えた。その苦難に満ちた訴訟の道のりを思うとき、私達中国の環境保護もまた、任重くして道遠しであることを改めて認識させられる。日本の友人達が、この問題を解決するため、忍耐強く頑張りぬき、あきらめなかったことに感服する。新潟水俣病資料館で、体験を語ってくれたご老人(訳注:権瓶晴雄氏)は、悲憤慷慨したり、意気込む様子もなく、ただ淡々と語り続け、私は深く心を打たれた。同行した“淮河衛士”の霍岱珊氏はしきりに涙をぬぐっていたし、韓国の中年女性も厳粛な面持ちで深く考え込んでいた。あの日あの時、皆の気持ちは通じ合っていたと信じている。中日韓の全員が自分達を“私達”と言える瞬間だった。私は私達の痛みを体験し、誤解や先入観に向き合い、投げ出さずにやり通した。
私は40年前の阿賀野川がどんな様子だったか、想像できる。しかし今日の阿賀野川も、私にとってはひとつの驚きだった。工業が高度に発達した国家、その河川がこんなにも澄みきっているとは。名も知らぬ水鳥や草花が、静かに何かを訴えかけているような川辺で、暖かく私達を迎えてくれた旗野さんがつぶさに語る川の歴史。それは私達がしっかりと心に刻むべき歴史だ。映像の中で見た旗野さんは、今、目の前にいる彼と何も変わらないように見えるが、彼という一人の人間は、数十年一日の如く、ひとつの事業のために努力し続けた。この強烈な使命感を前に、思わず尊敬の念が芽生える。ゴミの埋め立て場だった小山の上は、草花や樹木が美しく茂り、頂の向こうには真っ青な空、山の麓には静かで平和な村が見える。40年という歳月は、多くのことを変えたが、変わらなかったのは彼らの忍耐強い頑張りだ。
エンジニアとして、私は自分の力が小さくて取るに足らないことを知っているが、私には“私達”と呼べる仲間がいる。そして私達は“頑張り通す”ことを学んだ。東アジア環境市民会議はひとつの出会いの場であり、この場の力と私達の努力を通じて、私達は更に多くの理解と支持を得ることができるだろう。私達が水俣病患者のみなさんに寄せる理解と支持のように。
共に会議に参加した何人かの年長者の方々も、同じように多くの物語をお持ちだろう。そしてその物語の背後にも、きっと同じような“忍耐強い頑張り”があるのだろうと思う。近い将来、彼らが中国の淮河や漢江や、はたまた揚子江のほとりで、友人達を前にそれらの物語を語れる日が来ることを願う。物語に語られるのは、新潟と同じように青い空と水、明るい月に照らされる丘……。
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