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楽しく、アグレッシブに、これが旗野さん。
私と旗野秀人さんは2年前の2006年に、中国西安市開催された第三回東アジア環境市民会議のときに初めてお会いした。その時の旗野秀人さんの発言はとても印象深かった。
10月11日、第4回東アジア環境市民会議が日本の新潟県朱鷺メッセで開催されたが、開催中の3日間、旗野秀人さんはもっとも忙しい人の一人だった。
講演、交流、見学、説明などすべてにおいて彼の存在が不可欠で、新潟水俣病安田患者の会の事務局長として、終日、環境保護、水俣病患者の権利保護のために奔走している。私は旗野秀人さんの講演を聞くのが楽しみで、いつも悠然と語り、ユーモアに長けていて、これまで原稿を使ったこともなく、草の根の風格がある。特に、三日目の見学のときには、始終説明をしていた。というのも、見学した阿賀野川と旧安田町は、旗野秀人さんの生まれ故郷で58歳の現在もここで生活しているからだ。
彼が21歳のとき、友人の奥さんが水俣病を患い、手の施しようがなく、友人が悲痛な思いで妻の死を見届けたとき、彼は母親に言われて、友人を慰めるために駆け付けたことがあった。このときから、旗野秀人さんは水俣病患者のためのボランティアとなり、それ以来ずっと37年間続けて来たのだ!
これまで、旗野さんと彼の同胞たちは無数の圧力や困難を受けてきた。水俣病が発見されたとき、彼の言っていることを信じた人はいなかった。昭和電工を法廷で告発したとき、水俣病患者の訴訟は何度も繰り返され、水俣病と認定される人は少なかった。みなの努力の結果、後にも先にも水俣病と認定され賠償請求できたのは1回だけである。水俣病認定が必要な患者は未だに多く、旗野さんたちはずっと努力を続けているのである。
旗野さんが行っている公益事業はついに行政から認められ、さらに問題の解決を進めた。最後の水俣病患者の賠償請求が法廷で判決がなされなかったとき、双方和解により解決まで持っていく方法をとったのである。旗野さんは、「最後に残っていた水俣病患者たちは高齢で、判決が出るまで長いこと待っていたので、これ以上待っても意味がなかったのだ」と言う。
旗野さんのスタイルには感服する、最後の水俣病患者の「平和的解決」にとどまらず、日常生活においても常に前向きで、明朗活発、仲間と互いに励ましあい、相手に思いやりを持ち、歌を歌う、温泉に入るなどしてストレス解消をするなど、楽しみともに分かち合う、これは生きていく上での大切な知恵である。
旗野さんと新潟で過ごした時間は、旗野さんをより深く知ることができた。別れのとき握手すると、彼の手がとても冷たかったので、彼に体に気をつけるようにと言うと、だいぶ前から手の握力が低くなっていて、細かい作業ができないのだと言った。薬を飲んで治すようにと言うと、彼はポケットから赤色の薬を取りして私に見せ、2粒口に入れると、ふざけて「あなたも2粒飲んで」と言った。もしかしたら飲みすぎたのかもしれないが、彼が水俣病に関することはもうやりたくないと言ったので、私は彼に言った。それならば、あなたは市長になって、市長になれなかったらまた水俣病のことをやったらいいと。彼は、大笑いして私の肩をたたいた大工みたいな手は、硬くて力があった。
楽しく、アグレッシブに、これが旗野さんだ。私は旗野さんを信じている、諦めないでください!
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