|
水俣病の「公式確認日」から50年が経過した
水俣病は1956年5月1日、熊本県水俣市にあるチッソ付属病院の小児科医師が病状を水俣保健所に届け出たので、この日が「公式確認日」とされている。この日から50年がたった2006年5月1日は、水俣市でも多くの催しが行われたが、さきだって4月29日には、東京でも水俣フォーラムが主催する「叢想行列」「特別講演会」の行事が行われた。
ちいさな漁師町が企業城下町となった水俣でおきた水俣病は、地域社会に深刻な患者差別を生み出した。重症以外の患者は理解され難く、認定申請に対し「金めあて」との誹謗中傷を受けることすらあった。さらに、国の認定基準が厳しすぎることが深刻な問題を生みつづけている。
現地では1996年の政治決着以後、人々の和を再構築し地域再生を願う「もやいなおし」の取り組みも行われている。水俣市は環境モデル都市をめざす一方で、産業廃棄物最終処分場の立地問題を抱えている。
2004年の最高裁判決以後、国の認定を求める水俣病患者が3800人にものぼる。有機水銀の中毒問題は新潟、アマゾン、カナダ、中国などなど全世界の各地で頻発するようになった。患者にとって、人類にとって、いまだ水俣病は未解決の大問題なのである。
1960年以来、水俣病にかかわってきた原田正純さんは、その長い年月をふりかえった上で「水俣病はこれまで、幾度となく解決してこなかった。美しい漁村におきたとてつもない悲劇は、今後も問われ続けるだろう。水俣病は20世紀日本の最大の失敗ではあるが、貴重な遺産ものこした。しかしその遺産や教訓はいまだに活かされていない。足尾鉱毒事件が100年とわれ続けたように、今後も、市民、専門家の別なく、水俣病から社会や政治を問い続けなければならない」(筆者要約)と語った。
また、患者の中原八重子さん(鹿児島県出水市)は「家族のためと信じて長年、弟と自分の水俣病をひた隠しにしてきたが、それではいけないと思って認定を申請、私達のつらさを語ることにした。病弱で知的障害を持つ弟を治してやりたい」(筆者要約)と語り、緒方正人さんはじめ9人の患者と家族が、いのちの大切さなどを改めて訴えた。
特別講演会で発言した柳田邦男さん(作家・水俣病懇談会委員)は「かつてこの国は、石油化学工業の犠牲として水俣病を生み出した。いまは、日本の液晶の約6割を生産するチッソの倒産をふせぐため、あるいは国や県の財政難のため、水俣病の認定基準を変えようとしていない。産業のために人を犠牲にするというこの国の本質は変わっていない。
スイスは「2人の困っている人がいれば98人が助ける」と言われるが、日本は「2人の困った人を見捨てて98人が働く」社会だ。そこを本気になって変えないと大変なことになってしまう。また、社会の仕組みが専門分化し、医師が、官僚が、企業人が、それぞれの職務の専門的な利益を誠実に守ったがために、社会的に大きな不作為を働いてしまったことに、薬害エイズや警察不祥事と同様の社会の病理を水俣病にも感じる」(筆者要約)と語った。
患者の健康被害は軽減することはできても完全に回復することはできない。これからも私達は、水俣の負の遺産に学び、その清算を目指すことであたらしい世界を創っていかなければならない。
(関連サイト)
・水俣フォーラム
http://www6.ocn.ne.jp/~mf1997/index.html
・水俣病について知っておいてほしいこと(相思社)
http://soshisha.org/nyuumon/kisochishiki.htm
・水俣教育旅行プランニング(環境学習受け入れ組織)
http://www.mkplan.org/
・水俣病百科(熊本日日新聞・無料ユーザー登録すると詳しく見られます)
http://kumanichi.com/feature/minamata/index.cfm
|

4月29日、東京に水俣病の記憶を訪ねた叢想行列に参加した患者と家族

特別講演会で挨拶した、栗原彬(水俣フォーラム理事長)。壇上に安置されたのは、患者遺影(撮影:土本典昭夫妻)群

彼岸の気持ちを代弁し、いのちの尊さを訴えた緒方正人さん(漁師・患者)
|