Google WWW を検索 サイト内検索

環境ニュース

市民団体・市民紹介

地球と生きる方法

環境ニュース > 環境汚染 (日本 発)

環境汚染 あが便り(その3) ― 患者さんにずっと寄り添っていくという決意

新潟 新潟水俣病に携わる人びととの忘れられない出会いと別れがあった。

 正直を言えば、川本輝夫さんたちの行政不服の闘いを手本にして逆転認定裁決を勝ち取りたかった。しかし、診断書を書いてくれた斉藤恒先生(木戸病院名誉医院長)を除けば、患者さん本人と私だけの素人集団である。「水俣病でなければ何の病気か」の素朴な問いに、処分庁側は「高度の学識と豊かな経験を基にして処分した」としか答えない。今まで鉛筆など持ったことが無かった高齢の患者さんが、好きで食べた川魚の名前を震える手で精一杯書いた反論書や、18歳で川向かいから川舟に乗って嫁いできたと語る身の上話とのギャップに、向こうの土俵での闘いの限界が見えた。

 そして、忘れられない事件が起きた。何処の医者でも治らないと嘆いていたアキさんが、珍しく鍼治療が良かったと嬉しそうに語ってくれた翌朝早く、玄関脇の細いイチジクの枝に紐を吊し、自ら命を絶った。少しでも患者さんの力になれたらと流域に足を運んで5年目のことだった。あらためて自分の無力さを痛切に感じた。私は戸惑い泣きながら、どうしたらいいかを母に尋ねた。「とにかくすぐに行ってやれ、そばに居てやることだ」と言ってくれた。

 中学を終えたばかりの長女を頭に四人の子供たちを残して逝った42歳の若い母親の死を、当時新潟大学に身を置きながらも未認定問題に取り組んでくれていた白川健一先生に訴えた。独善的な認定審査会長に対して客観的なデータで反論すべく独自で開発した計測器を持ち込むなど積極的、良心的にかかわっている先生を充分承知の上で「ひとりの命も救えない調査は無意味だ」などとその無念さを若さに任せて私はぶちまけてしまった。その時の白川先生の辛く、悲しそうな顔は忘れられない。後で気づくのだが、先生とアキさんは同じ歳だったのである。私はこころ密かに決意した。どうであれ、同じ流域に住む生活者のひとりとして今後も患者さんにずっと寄り添っていこうと、教えてくれた母に感謝しながら……。

 1981年の冬、私は鍼灸師の資格を持つ彼女と結婚した。白川先生はそのお祝いに「ふかくこの生を愛すべし」で始まる会津八一(あいづ・やいち)の学規を扁額に入れてプレゼントしてくれた。映画「水俣の図・物語り」の試写会を実家の二階でやったこと、ひとり芝居「天の魚」の安田公演など、いつも先生は学生諸君と共に積極的にかかわってくれたことを印象深く記憶している。その先生も3年後の1984年「患者の皆さんに借りを返せなかった」と言いながら49歳の若さで逝ってしまった。

 大切な人を亡くしショックで落ち込んでいる同じ年、後に新潟の宝物となった映画「阿賀に生きる」の佐藤真監督と運命的に出会う。勝ち目のない10年ほどの行政不服の運動を通して、水俣病患者である以前に生活者の達人であるという一人ひとりの魅力にようやく気づき、熊本には石牟礼道子(いしむれ・みちこ)をはじめとする大勢の表現者がいるのに新潟にはいないことをそれまでは悔しがったりもしていたが、佐藤さんとの出会いで新しい阿賀の物語が始まる予感がしたのである。

(あが便り バックナンバー)

・その2「立ち上がる安田町の人びと」
 http://www.enviroasia.info/news/news_detail.php3/J08062001J

・その1「第4回東アジア環境市民会議・新潟開催に向けて」
 http://www.enviroasia.info/news/news_detail.php3/J08060602J


かつては鮭もこのように豊漁だった

白川健一先生(左)

冬の昭和電工 鹿瀬工場
記事執筆、翻訳
日付 2008-07-18
筆者 旗野秀人 (HATANO, Hideto)
媒体 寄稿
団体名 新潟水俣病安田患者の会事務局
URL
翻訳者

掲示板 新規書き込みは >>こちら

No Comments

page top