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高齢となった新潟水俣病の患者さんだが、実に元気で明るい。問題解決と再生のカギはそこにあるようだ。
新潟水俣病の経験を中国に伝えることをテーマにした第4回 東アジア環境市民会議が閉幕した翌10月13日は、関係者らが新潟水俣病の地を探訪するフィールドトリップの日。よく晴れた秋空の下、阿賀野川流域の光景はただ清々しく、公害の地であったことを忘れさせるくらいだった。
新潟駅前を出発したバスは阿賀野川に沿って磐越自動車道を走り、メチル水銀の発生源だった旧昭和電工 鹿瀬(かのせ)工場跡地をめざす。阿賀町役場を過ぎ、麒麟山を通り、JR鹿瀬駅を越えるとさらなる登坂になる。その中腹に見晴らし台はあり、跡地が一望できるようになっている。流域探訪で最初に降り立ったのが同地である。
「安田患者の会」の旗野秀人事務局長に案内役をお願いし、現地ならではの話を聞く。見下ろす一帯が工場と言っていい程の規模だったことから、地域に与える工場の経済効果は小さくなかった。工場内にはちょっとした娯楽施設もあり、同社社員は羨望視されていたと言う。水俣病の病因が同社にあることが判明してもアセトアルデヒドの生産を中止するどころか増産に転じたのは、こうした地域経済との結びつきがあったため、とも言われる。
陽射しは強く、気温も上昇する中、話も深まっていく。東北電力 第二鹿瀬発電所、未処理のメチル水銀をかつて放出していた排出口と水路など、訪れる先々で、その場に因んだ話が繰り広げられ、それに応えるように中国・韓国からのゲストも耳を傾け、メモをとり、質問を投げかける。予定時刻を過ぎてしまったのは、それだけ伝わるものがあったから、だろう。
帰路は国道49号を走る。車窓からは阿賀野川の景観がよく見える。鹿瀬から咲花(さきはな)までの約20kmは、「阿賀野川ライン」と称される程の景勝地である。そんな風光明媚な土地の上流側を当時の昭和電工が選んだのには理由がある。製品原料となる石灰を調達しやすかったこと、発電所に近く電力を得やすかったこと、そしてその豊富な水。だが、そうした地の利・水の利が裏目となり、公害は起こり、流域を地域を分断することになってしまったのである。
旧三川村(石間地区)に入ると、ネコやカラスが狂死したのがこの辺り、との説明があった。川の魚を食べたのは人間ばかりではない。他の生き物も同様に犠牲になった。生き物の連鎖を断ち切ったのもまた新潟水俣病、と言える。
その後に設けられた患者さんとの交流会(千唐仁(せんとうじ)多目的集会所にて)では、水俣病の語り部である権瓶晴雄さんをはじめとする6人の患者の方々から話を伺った。
現地を訪ねないまま、診断書をチェックするだけで「高度な学識と豊かな経験」と言って憚らなかった当時の行政への憤り、同じ魚を食べているのに地域によって認定差が生じ、さらには同じ地域内でも認定された・されないを巡って分断(住民どうしの足の引っ張り合い)が生じた苦悩、薬の効き方にも治し方にも個人差があることが理解されない辛さなどが切々と語られた。語りにくい話もあるはずだが、皆さん至って気丈だった。
患者の一人、渡辺参治(さんじ)さんは、齢90を超えるご長寿だが、声に張りがあり、歌うとさらに朗々となる。参治さんは歌うのが何よりの楽しみで、楽しいことを実践できることが最大の治癒になっている、と言う。韓国ゲストから出た質問の一つ、「裁判や差別で辛いことが多いのに、患者の会の活動が長年続いている秘訣は?」 その答えとして返って来たのが歌。声量といい動作といい、圧巻だった。
会代表の権瓶さんも70代後半だが、至って達者である。入院せざるを得ない期間が毎年のように生じ、それを20年近く繰り返していらっしゃるそうだが、まっすぐに人を見る眼差しやご意思を伝えようとする姿勢を見ていると、とてもそうは思えない。見た目ではわからないのが水俣病の特徴であり、その見えにくさが、あらぬ冷遇・誹謗・嫌がらせを招き、問題解決を遅らせたと聞く。見えないからこそしっかり支える、これは今日に活かされるべき教訓だ。
かつての生業だった川舟の船頭も川魚の漁師も今はいない。だが、農業用水や飲用水は阿賀野川から供給されており、公害を超えてしっかり受け継がれている。水が元気になった以上、人も負けてはいられない。そんな気概と元気を患者の皆さんからいただいたように思う。相当な困難と苦闘を経た上ではあるが、「普通に楽しく生きる」ことが何よりの薬であり、問題解決と再生のカギでもある。阿賀から東アジアへ伝えることの一つはここにあると言っていいだろう。
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旧昭和電工 鹿瀬工場跡地を見下ろす高台にて(案内役:安田患者の会 旗野さん)

手前から権瓶さん、渡辺さんら(男性3名、女性3名の患者の会の皆さん)

阿賀野川流域(下流部)マップ
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