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今は、交流を云々する前に、国民の心を察しなければならない時期
「ここ10年間の影は大きく、その根も予想より深いということが分かった」。数週間前、李明博(イ・ミョンバク)大統領が国家朝餐祈祷会で口にした言葉だ。この言葉から、80%を超えていた支持率が20%台に下落した最近の時勢に対する彼の認識が窺える。つまり、彼の認識は次のようだ。最近韓国国民が見せたイ・ミョンバク政権に対する不信と反感は、ここ10年間、前の政権が国民に偏向的な認識を持たせた結果だ。ロウソクを持った韓国国民の「背後」には、前の政権の影響を受けたお喋り屋や同調者がいるだろう。
自分から起因する問題の原因を他人から探そうとするこのような錯誤のほかに、最近の広範囲な民心離反の原因を探ってみると、1つ2つだけではない。その中でも、大運河と狂牛病の牛肉問題は、韓国国民の意思と大統領の意思がもっともはっきり食い違っている事案だ。
大統領は国民が反対しても、統治レベルで必要と思われるなら、またアメリカとの友好関係を築けるなら、輸入を強行するといった態度を見せてきた。しかし、これは明確に民主主義を否定する態度だ。この単純な事実を否定しているため、全国民がロウソクを持って街頭に出たのだ。
大統領は国民との交流に先立って、反省をせねばならない
大運河だけは強引に貫こうとする大統領は、国民がなぜ大運河に反対しているのか、その根本的な原因を考えていないようだ。韓国国民は、自分たちの川を設計と操作、変形の対象としている大統領の考えが間違いだと言っている。国民は直感的に、川をセメント道路に舗装すれば膨大な生命の死を招き、その死には結局、人も含まれかねないという事実を察知しているのだ。国民はすでに自然と親しんでいる。川が吐き出す息吹を感じたことのある国民に、いくら物流、観光、内陸開発、治水と名目を変えようと、大運河の実態は目に見えている。韓国国民はすでに土建事業において生態的、環境的という装飾語が付くことをコメディとしてしか受け入れていない。狂牛病の牛肉問題をとっても同様のことが言える。大統領の言葉のように、確かに食べなければいいことだ。しかし、国民は現代社会の複雑な食品供給体系において、たった一口の牛肉も、たった一さじの牛肉スープも口にしないというのは、「完璧にも」ありえないという事実を直感でわかっているのだ。
このように激怒している民心の底には、大きな二つの概念がある。まずそのひとつは、人間の体、生命はまた自然に属しているということだ。川に生育している多くの生命体はもはや私と無関係な他者ではなく、私の体の一部でもある。もうひとつは、進化した生命体であるからこそ、同族の肉を食べてはならないという科学的なタブーと自然の摂理を無視してはならないということだ。牛に牛を食べさせ、問題になると、今回はまた、牛を鳥、豚、羊に食べさせ、さらにそれを牛に食べさせる反自然的な行為は結局、ブーメランとなって、われわれ人間に帰ってくるのだ。
従って、今、韓国国民が毎夜見せているキャンドルデモは、生命の倫理に対する覚醒とこれを守ろうとする決議かもしれない。国民が感じている大統領の問題は、交流云々より、哲学なのだ。自然を黄金の卵を産むガチョウと見なし、韓・米FTAは国民の健康より優先するといった考え方を直さない限り、国民と交流しようとしても、何の意味があるのだろう。
古今を問わず、権力を持つものたちの自然に対する態度は、地上の最後に残ったひと株の木まで切って薪炭にしようとする愚かな行為に似ている。その最後の一株に例えられた自然を全部壊してしまうと、誰がわれわれに生きる空気や水をくれるだろうか。
狂牛の肉を食べた子どもたちが大人になり、花咲く女性になった時に、牛のように倒れる可能性があるとしたら、それはひとつの政権だけの問題ではないだろう。大統領は国民の直感と自然の法則を尊重する心を学ばなければならない。そして、自分の考えに我執と独善はないか、反省しなければならない。国民との交流は、その時になってやっと始められるのだ。
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米国産牛肉に反対する市民たちが去る5月20日、狂牛病で座りこんだ牛の模型を背景にソウル清渓広場でキャンドルデモをしている。ⓒニュースメーカー
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