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水俣病のような悲惨な事件が再発しないよう、環境NGOの協力を強化していきたい。
■汚染水が招く環境の逆襲-①
中学・高校の教科書にも載っていて日本でよく知られている水俣病は、イタイイタイ病とともに、現代もっとも代表的な公害病として挙げられる。そして、恐らく「水俣地域の住民が水銀で汚染された海の魚を食べて、体が捩れるなどの症状が表れた不治の病気」ということが、ほとんどの人が知っている水俣病の内容であろう。
しかし、この病気の発生後、何年も経たないうちに日本の他地域でまた水俣病が発生し、その後、カナダやアジアの幾つかの国をはじめ、世界中で散発的、持続的に現れ、今もある地域でこの病気が発生しているという事実を知っている人は、あまりいない。
水俣病は水銀中毒の現象で、水銀に汚染された水を飲んだり、生物の食物連鎖を通じて最終的には、魚介類を摂った人に水銀が大量蓄積され、発病する。症状としては、筋肉の捩れや体力低下などがあり、通常いくつかの症状が一緒に現れ、酷い場合、死亡にまで至る。しかし、未だに水銀を一部排出できる治療法しか見つけておらず、完治できる治療法はない。そのため、被害者たちは一生を鎮痛剤と苦しみの中で暮らしている。
■水俣病が初めて発生した熊本県水俣湾
この病気が初めて発見されたのは熊本県の水俣湾一帯で、南部の小さい漁村で1952年、異常行動をする奇形魚が現れ始めた。そして、52年には海が赤黒く変わり、海辺に打ち上げられた魚を食べた猫、犬などが海の中に飛び込むなど、狂いを見せ始めた。そしてその翌年は、住民の手足が捩れるなど、中枢神経の異常症状が現れた。
そして、56年に水俣市に住んでいた6歳の田中さんが初めて症状を訴えることで、政府が公式的に熊本の水俣病を発見し、59年に「水俣病の原因は、水銀と推定される」という報告書を出した。そして、水俣湾近辺にあった日本窒素肥料会社「チッソ工場」がアセトアルデヒドを作る過程で水銀を触媒として用い、それを排水とともに長い間放流していたのが原因だということが明らかになった。
しかしその後、チッソ工場は大した金額でもない慰労金で住民との紛争を解決しようとした。そして政府は、水俣地域に対する追加調査や浄化、補償などをろくに支援していなかった。その上1960年には水俣の発生が終わったとし、新たに発病した患者を認定しなかった。結局、当時認定を受けた111人の被害者の中、47人が死亡、現在補償を受けている被害者と未認定被害者を合わせると、合計27,000人余りの公害病患者が出た。
■再び発生した第2の水俣病
1959年新潟県阿賀野川で魚の集団廃死が発生した。そして、62年から手足が痺れ、物が二重に見えるなど、近隣住民の健康に異常な症状が現れ始めた。64年には猫が自分で壁に頭をぶつけ死ぬなど、熊本地域にも起きた「自殺猫」が現れた。そして、熊本の水俣病を確認してから9年目になる1965年、新潟の水俣病が公式に発表された。
政府は、水俣病が初めて発生して以来、水銀を使用した窒素会社などに対する全国的な調査を行った。しかしその結果は公開されず、政府政策の改善も見られなかった。新潟地域の水俣病は、阿賀野川の近辺にあった昭和電工が水銀を数年間排水とともに放流したのが原因で発生したもので、昭和電工は当時政府の調査対象に含まれており、水銀の危険性についても知っていたが、その危険性を過小評価した。その上、調査結果が公開されていなかったため、住民は事前にこの事実を知るすべがなかった。
■公害を社会問題化した原点、新潟水俣病
昭和工場と国を相手に、1967年から始まった新潟被害者たちの訴訟は、2004年まで続いた。67年~71年に行われた1次訴訟は住民の勝利で終わった。73年に締結された補償協定を通じ、水俣病と認定されれば、この協定に基づき補償を受けられるようになった。しかし同年、政府の水俣病認定基準が厳しくなったため、未認定被害者たちをはじめとする新たな被害者は82年に第2次訴訟を起こし、95年に国の最終解決案を通じて昭和電工と解決協定を結んだ。当時一緒に進んでいた熊本の水俣病訴訟も、国の最終解決案を受け入れた。だが水俣病に対する国の責任を認定する関西訴訟は2004年にまで及び、ついに原告の勝訴で終わることになる。しかし、日本の行政府は司法部のこの判断を未だに認めていない。
このような新潟の水俣病と関連する一連の活動は、水俣病という公害病が社会問題化するきっかけとなった。新潟の水俣病が公式発表された当時、ほとんどの人は水俣病という名前は聞いたことがあっても、有機水銀中毒による病気だということと、このような病気を引き起こす窒素工場などの危険性については知らなかった。しかし、長い時間をかけて訴訟が起こされ、既に終わったと思っていた水俣病の問題が再び注目を集めるようになってから、反公害の世論が喚起された。このような理由から、熊本県の水俣病は「公害の原点」、新潟の水俣病は「公害を社会問題化した原点」とされている。
■新潟の水俣病事件が教える意味
日本は、現代の様々な主要な病気に対する政策の不在に対し、「水俣病の教訓を学んでいない」と話している。第1、第2の水俣病という経験を通じ、場当たり的な対処は被害の拡大と再発を招き、初期対応の遅延は人権を侵害し、行政に対する不信を拡大させ、結局、社会的、経済的損失を拡大するという事実に気づいたのである。
また、新潟の水俣病のように、環境汚染による被害は点ではなく、面で発生する。被害を最小限に抑えるためには、患者個人個人の問題としてではなく、地域全体の問題として環境汚染を把握し、対処していく必要がある。その上、地域内に位置する企業に対して、国の管理と規制だけに頼らず、自治体や地域市民組織が企業との協定などを通じ、共存共栄を探ることも必要である。これは、第2次訴訟後結ばれた解決協定にも「企業活動において、地域環境、地球環境保全にも社会的責務を果たすべき」と明記されている。
そして、37年間に渡った企業と国を相手にした被害住民の訴訟は4大公害裁判と呼ばれ、公害被害者救済法制に大きな転換をもたらした。この訴訟の勝利は、公害に対する企業と国の責任を認めさせ、彼らの姿勢を変化させるきっかけとなった。
しかし、何よりも水俣病が我々に教えてくれるもっとも大きなメッセージは、私たちが破壊した環境は、結局、その中で生きている人間に被害をブーメランのように引き戻すということだ。いわば「環境の逆襲」である。私たちが今も絶えず破壊している環境と生態系がいつかその被害をそのまま人間に引き戻しかねないという危機感は、環境と人間が共存できるような社会作りの必要性を逆説的に語る。
■まだ終わっていない水俣病
残念ながら、水俣病は未解決の問題だ。日本国内の被害者に対する救済がいき届かないという問題とともに、世界各地で第3、第4の水俣病が引き続き発生しているからだ。
カナダのオンタリオ州、インドネシアのジャカルタ、スラバヤの苛性ソーダ工場、フィリピンのミンダナオ 金鉱、イリガンの塩素工場、タイのチャオプラヤ川、インドのカール川、カンボジア 台湾企業による不法投棄事件などがすべて水銀中毒と関連する事件だ。
その中で、急激な開発途上の段階を経ている中国が特に懸念される。中国は70年代、白頭山を水源とし、ロシアのアムール川と合流し、オホーツク海に流れる松花江が水銀に汚染され、70人余りの住民が被害を被った。汚染源は、吉林のアセトアルデヒド工場と染料工場、電池、電動測定器、金鉱精錬工場などだった。このような水銀汚染以外にも、中国の水問題は深刻なレベルに達しており、中国の河川や湖の70%以上が汚染されている。そのうち、30%前後は魚が生きられない「5級水」という報道もある。
このような状況で何より大切なのは、水俣病の意義に基づいた全世界的な交流と協力である。問題が発生した地域の経験を交流し、地域的、国家的共通の予防と対応が必要である。これは、現在水俣病を患っている被害住民が自分たちのような被害者が再度出ないように、誰よりも願っていることだろう。
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