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詩人ト・ジョンファンさんの手紙
先月、環境運動連合から自団体の広報をするラジオ広告をしてもらえないかと依頼された。20秒ほどの短い広告だ。無料のラジオ広告だが、気持ちよく終えて帰ってきた。数日後、再び電話があった。選挙管理委員から選挙法違反と言われたので、もう一度だけ録音してもらえないか、ということだった。「四大河川事業で、シラヒゲカマツカ、マツバギク、マナヅルといった貴重な生命は、皆どこへ行くのだろうか」という程度のコメントだったのだが、「四大河川」という言葉が入っているため選挙法違反であるというのだ。
泣き出しそうな担当者と一緒に、「四大河川」という言葉を「川」に置き換えて再度録音した。ところが万一の場合に備えて「川」を「春」に換えてもう一度録音してみようというのだ。「川」という言葉でもだめかもしれないから、それなら「春」で提出しようというわけだ。テレビをはじめとした様々な媒体で広報をしても政府のものは合法であり、環境運動団体は後援会員になってほしいという広報でも、四大河川という言葉が入ると不法になる世知辛い時代になった。
抵抗の文章を書こうとする作家たちと抵抗の芸術運動に乗り出そうとする芸術家たちが、工事の進む川に実際に行ってみようと出かけたのだが、そこで私は生きたまま皮をはがされて苦しむ一匹の巨大な生物を見た。まだ生きている命に、刀を刺して皮をはがし、肉片を重機のシャベルの刃で刺しまくっているようだ。それは、野蛮な獣が寄ってたかってある生き物の体に食らいついている姿であった。
人間の体は大部分が水で満たされている。川と渓谷に沿って流れる水は、私たちの命を支えてくれている。山と森から生み出される風は、私たちの体内を満たし、呼吸をさせてくれている。土と水によってできたものを食べて熱と力を得ながら、自然の力によって生命は維持されているのだ。人が死ぬときは、土の気、水の気が体の外に抜け出る。その次に火の気がなくなり、ゆっくりと体が冷えて、外に出て行った風の気が中に入ってくることができなくなって死に至るようになる、と能行僧侶は「この瞬間」という本でおっしゃっている。土、水、火、風が集まって生命となり、それが散らばると命が尽きるということだ。だから、それらを自分の体の一部とみなすのである。
イシガメは砂浜がなければ掘って卵を産むことができない。砂利が川底に集まっているからこそ、そこに素早く水が流れて豊かな酸素が生じ、それによって生きている魚もいる。ミホシマドジョウは流れる砂に寄生している藻類を食べ、ズナガドジョウカマツカは砂利に付いた藻類を食べて生きている。水深が浅くなければ生きられない魚もいるし、季節によって変わる水温のために上流や下流へと移動しながら生きている魚もいる。川辺には岩もあり、隠れる場所があるからこそカワウソは生きることができ、貝殻と草があるからこそイカルチドリのような鳥類は巣を作って繁殖することができるのだ。
重機で押し出しながら堰を造ってセメントで覆ってしまえば、川に棲んでいた数多くの生命は絶滅してしまうだろう。魚、鳥、爬虫類、花などが消え去った後は大気中の水分の質も悪くなって霧が頻繁に発生し、その間果物や農作物もまともに育つことはできないだろう。その空気、水、農作物によって暮らしている私たちの命もまた衰えてゆくだろう。しかし、川が苦しんでいる様子を見ながら、私たちも共に苦しむほかないという理由がどこにあるのか? 理由はそれだけにとどまらないのである。
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